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遠い崖 第2巻 薩英戦争
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽
生麦事件の賠償金は、紆余曲折の末、英国の要求通りの額が幕府負担分が支払われたが、薩摩藩は依然支払いを引き延ばしていた。交渉のため、7隻の英国艦隊は、横浜から5日掛かって鹿児島に着いた。石炭節約のため大部分を帆走したため。このとき、生麦事件の賠償金の一部は積まれたままだった。
艦隊の砲の総数は、90門だった。
幕府の役人らは艦隊への同乗を断り、幕府の船で英国艦隊の後を追ったのは、薩英の仲介役にでもなるつもりかと思いきや、到着は薩英戦争終了後。大幅に遅れたのは非力な60馬力のエンジンにあるのではなく、幕府内の開国派と攘夷派の板挟みによる折衷案の結果だったらしい。
薩摩は英国との貿易を望んでおり、この交渉をその為に利用する腹積もりがあったが、英国側の賠償要求書にあった事件の首謀者の首を差し出せ、という項目が、責任者(すなわち島津三郎こと久光)の首と幕府側が勝手に解釈した文書が存在した。
鹿児島湾に投錨した旗艦に、薩摩の役人達は小船で何度も来艦し、上陸要請や物資の補給を申し入れたが、英国側に拒絶された。うち、40名程の、回答書を持参した藩の高官と称する一行も乗艦したが、実は生麦事件の当事者2名も加わっており、居合わせた英国公使と艦隊司令官を斬り殺す手筈だった。陸上からの決行の合図を待っていたが、急遽、引き返す事になり、公使らは命拾いしたという。この計画には久光も賛同していた。
後日届けられた回答書は、責任は全て幕府にあるというもので、首謀者二人は行方不明という、英国側には受け入れられない内容だったため、強硬手段に出る事になり、湾内に潜んでいた薩摩の汽船三隻を拿捕する。このとき、藩命に背いて船を待機させた責任者として切腹が待っているからと下船せず、神奈川で放免された二人が、船長の五代友厚と、通訳で後の外務卿・寺島宗則だった。
この汽船の拿捕を切っ掛けに、薩摩は砲撃を開始する。
アーガス号には110ポンドのアームストロング砲が装備されていた。艦隊の実戦での使用はこれが最初だった。
砲台の破壊にとどまらず鹿児島の街を焼いたことは、後日、英国本国の議会でも問題視された。
英国艦隊が旗艦の艦長・副艦長が砲撃されて戦死し、他に7名の戦死者を出したのにも拘らず、勝敗の決着をつけずに退去したのは、石炭・糧食・弾薬の供給不足が原因と思われるが、薩摩藩はそれを我が方の勝利と喧伝し、幕府も賞賛した。しかし、火砲の優劣は比べようもなく、英国の砲は薩摩砲の射程の4倍もあったし、ロケット砲による火災を含め、薩摩藩の損害は甚大だった。
英軍が上陸しなかったのは、五代らが英軍に問われて、上陸すれば勝ち目はないと言ったからだった。薩摩藩は英軍の上陸を想定して、準備が整っていた。
鹿児島の街を焼いたことは、英国で人道的立場から非難され、文明国の行う戦争ではないと糾弾された。新聞に公文書が公開されていて、当事者個々人の責任が問われた。後の大戦での米軍による無差別爆撃を思うと、当時の英国の世論との違いに、感慨深いものをおぼえる。
元々、英国と一戦交えるなど望んでいなかった薩摩は、軍艦購入を持ち掛け、賠償金を支払うことで急速に英国に接近し、英国を驚かす事になる。生麦事件の実行犯の差し出しや処刑は結局うやむやになった。
オールコックが戻って来て、堅物の代理公使ニールと交代する。サトウはニールに昇進を願い出る。
そんな時期に起きたフランス狙撃兵将校暗殺事件。
「その右腕は、手綱を握ったままの状態で、すこしはなれた場所で発見された。顔の脇が切りおろされており、一ヶ所は鼻をつらぬき、一ヶ所は右の頸静脈を切断し、もう一ヶ所は脊椎をたちわっていた。左腕は、ただ皮一重でぶらさがっており、胴の左わきは、心臓をさらけ出していた。」
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