禺画像]
「どの切り口も、まったく手ぎわよく、あざやかであった。ということは、このような暗殺者の手に握られた日本刀が、いかに強力な武器であるかを示すものである。」
日本刀で斬り付けられた時の恐ろしさが如実に伝わって来る。
第二次遣欧使節団は、明らかに幕府の時間稼ぎ。
長州藩による米国艦艇砲撃事件の解決に、伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)2名が尽力したが、結局、藩主の意見を聞くだけに終わり、連合艦隊が下関に向かう。サトウも英軍提督の通訳として乗船。同僚のウィリスは外されたのを悔しがった事が彼の手紙でわかる。サトウの日記に書かれていない分は、このウィリスの手紙に負うところが多い。
艦隊の主力は英国で、次いでフランス、オランダで、日本に開国を迫った米国は砲一門の艦船しか参加していない。これは米国の軍艦が出発直前に故障し、商船に砲一門を移設したためだった。
この頃になると、サトウは日記を一部候文で書いている。
占領された砲台の写真をベアトが撮っている。文章だけよりも、写真の説得力は絶大だ。
休戦協定が結ばれ、長州藩主の批准を待つ間、サトウはベアトを伴って家老の井原主計を訪ねた。写真を撮る為だったがベアトが興味を失って写真は撮られなかった。サトウは井原に伴われて料理屋で食事をするが、アワビ、スイカ、スッポンを食べたが、下関なのにフグは食べなかった。フグが解禁されたのは、伊藤が総理大臣になってからだ。
サトウは横浜へ出航する前に、伊藤俊輔の用意した西洋風の夕食に招かれている。伊藤は翌日にもサトウと出かけていて、急速に親しくなっている。サトウにとっては、倒幕側の人物との人脈がその後、非常に役立つのだが、この時は、伊藤が日本語の堪能なサトウを気に入ったのだろうと思える。
薩英戦争当時、電信はセイロンより東には届いていなかったので、横浜とロンドンの手紙の往復には4ヶ月かかった。本国では軍事行動は慎むようにとの指示を出していたが、郵便事情によって、オールコックの連合艦隊による下関攻撃は、本国のラッセル外相の意向とは全く正反対ものとなってしまった。
p313 サトウは、後年の回想録『一外交官の見た明治維新』の中で、当時の横浜の外国人社会のことを、あるイギリスの外交官は「ヨーロッパの掃き溜め」と呼んだと書いているが、とにかく、ウィリスは、結婚の対象として自分にふさわしい女性に横浜で出会うことが、到底ありえないと、考えていたようである。
*サトウは日本語の読み書きも益々堪能になり、倒幕派の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)らに信頼され、親しく交わった。この為、英国は幕府側に援助しつつも、倒幕派の情報も入ってきた。歴史的な場面に通訳として立ち会ったサトウの書き残したものは臨場感に満ちたものになっている。フランスは幕府にぴったり寄り添ったので、やがて横須賀にドックや工廠を造ることになる。
セコメントをする