読み終えた本「日本に来た最初のイギリス人」
2015-03-31


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読み終えた本「日本に来た最初のイギリス人」
P.G. ロジャーズ (著), 幸田 礼雅 (翻訳)
新評論 (1993/09)

p36 リーフデ号の積荷には,五百挺の火縄銃,五千発の砲弾,三百発の連鎖弾,五千ポンドの火薬,三百五十本の火矢などがあり,家康は関ヶ原の戦いでこれらを使用した。(この本には記載がないが,この戦いでは船の砲や砲員を活用し,西洋式の甲冑を具足に仕立てたと記録にあるそうだ)

p83 アダムズは、オランダ人には便宜を図った。この頃、イギリスも東インド地域で交易を始めつつあることを、オランダはアダムズにはふせていた。アダムズが故郷に託した手紙は全て握りつぶされた。

p99 アダムズの書簡は、遺書も含め、全部で10通残っている。

p127 1623年の東インド会社に送った手紙には、家康から帰国の許しを得た、とあった。にも関わらず、機会があったのに帰国しなかった。アダムズが、結局帰国しなかった理由について筆者は、日本にいれば社会的に傑出 した、多大の影響力を持った人物でいられるのに対し、帰国すれば一介の船長か舵手に戻らざるを得ないと言う認識があった、さらに日本人の妻子を捨てる気もなかったのだろう、と述べている。

p144 シャムへの旅の帰り、アダムズは琉球から甘藷を持ち帰り、平戸の商館の庭に植えた。
家康は、平戸にイギリス商館を許可するが、家康の死後、秀忠は、平戸以外に、イギリスの貿易拠点を認めなかった。商館長コックスは、アダムズがオランダとスペインに対してより、英国人に対して冷たい態度を取ることに承服できなかったが、事実は、家康の命令を優先していたからで、コックスの疑いは根拠のないものだった。

p167 平戸でしか商売の出来ない英国商館に代わって、アダムズ個人のものと偽って、東インド会社の商品を各地で売りさばいてやり、会社の債権を京都その他で取り立てている。
また、御法度だった武器弾薬のシャムへの輸出を、大老・酒井忠勝に認めさせている。この時、アダムズは既に商館員ではなかったにも関わらずだ。

p127 1618年、イギリス船がオランダ船に拿捕され、積荷の貴重な一部が奪われる事件があった。コックスは国際法違反を訴えるため江戸に向かったが、アダムズはオランダを訴えても身のためにならない,むしろこの一件は早く忘れる方が良い,といった。馬で一行を迎えに来たアダムスと秀忠に貢ぎ物を届けに江戸城へ参内した。しかし,秀忠はじめ側近たちは,アダムズに対して取り合わないという仕打ちをするばかりだった。それ以前,イギリスが雇った日本人通訳は,アダムズに恨みがあるのか,将軍(秀忠)への献上品をもっと立派なものがあるのに出し渋って安いものにした,というような中傷を行なっており,他のイギリス人も幕府から不利な扱いを受けることになった。また,秀忠は家康以上にカトリックを嫌い,偶然,アダムズの取引相手であるスペイン人を自宅に泊めたことが,宣教師をかくまっているという噂になり,将軍の耳に入ったという不幸なことも重なった。

コックス商館長は略奪品に対するオランダへの制裁を将軍に求めたが,将軍は暇がいくらあっても,狩りに出かけるなどして会うことをしなかった。しびれをきらしたコックスは平戸へ帰ってしまうが,アダムズは2ヶ月も江戸城で将軍の沙汰を待った。その結果は「日本の外海で起きたことなので我が国は関知しない」というもので,御朱印の継続も叶わなかった。
それでも秀忠は一度だけアダムズを城に呼び寄せた。それは彗星が出現したからで,アダムズにその理由を問うた。アダムズは「戦争の予兆ですが,日本ではなく外国のものです」と答えた。事実,其の頃,30年戦争が起きている。その後,秀忠はアダムズとの関係を完全に絶った。アダムズは幕府からは不要のものになってしまった。

p180 ほどなくしてアダムズは亡くなった。1620年5月16日,平戸であった。最後の航海ののち,病気になったが,病名などは商館員イートンの日記にはない。

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