読み終えた本 遠い崖 第4巻 慶喜登場
2018-05-30


読み終えた本
遠い崖 第4巻 慶喜登場
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽(1999年)

パークスは日本の内政には不干渉(英仏蘭米ともに)の立場を取ったが、第二次長州戦争では2隻あったフランスの軍艦は、本国へ引き上げてしまったので、フランスは事実上幕府を支援できなかった。

横浜の大火では、サトウ等の住まいが焼け、特にサトウは多くの蔵書や原稿を失った。本国への報告にある損害リストには拳銃(コルト)が入っている。

1866年、サトウは長崎で、シーボルト(父)が所有していた山荘を訪れている。その後、通訳官シーボルトの姉に会っている。姉はすなわち、父シーボルトと楠本滝との間に生まれた「伊禰」である。父シーボルトはこの2ヶ月前に亡くなっている。

慶喜が新将軍となるに当たり、パークス等外国公使と四人の外国奉行が協議したが、この時、将軍の資格と地位がはっきりとし、それまでの将軍をMajesty と呼ぶ事は相応しくないとし、天皇にのみ相応しいと考えるようになった。将軍に対してはHighnessが適当であるとした。実際には慶喜と四カ国公使が謁見した際、パークスはHighnessの呼称に固執したが、他の3カ国はMajestyと呼んだ。

p174
サトウの「一外交官の見た明治維新」は、昭和35年まで禁書扱いだった。孝明天皇毒殺説の為。

p210
将軍慶喜と各国大使との謁見に同行したサトウは、大阪の街を散策、三井呉服店(三越の前身)の前を通った時「店は数え切れないほどの行灯の光で照らし出され、実に美しい眺めであった。」と述べている。

p228
サトウと二等書記官ミットフォードは、小松帯刀らと会談した際、小松から英国の介入を望まれたが、政治的中立を保つという方針から、パークスははっきりとこれを拒絶している。

p277
大阪での徳川慶喜との会見を前に、パークスはロッシュが大阪と江戸の開市を、外国人が住むには危険が多いという理由で除外しようとしている点を問題にしている。パークスは外相への報告で「武器を携帯した始末におえない階級がいるところでは、常にある種の危険がつきまとうであろうが、この階級はたんに江戸と大阪にいるばかりでなく、日本の至る所にいるのである。」と述べている。だが、大阪は商人が多いので比較的安全と言っている。また、フランスは武士階級をかなり恐れていた事がうかがえる。
この当時、日本が「支那」のようには扱えない事が英国にはよく分かっていたのだろう。事実、そうならなかった。

サトウは、比較的暇な時期に、パークス等を引き連れて、船で熱海に行き温泉を堪能し、箱根の関所を見て、小田原を旅している。当時の旅籠の様子や、オールコックが残した石碑(得意の漢字で彫られている)の描写が興味深い。オールコックの愛犬が間欠泉の熱湯を浴びて死んでしまい、その死を悼んだ石碑は今でもあるという。

サトウは箱根旅行の後、泉岳寺近くの寺に住む事となる。公使館はこの寺の下にあった。この頃、日記に英国留学生の件で「安房」として登場するのが軍艦奉行、勝安房守だ。この頃から勝とは親密な関係となる。
サトウはワーグマンや従者とともに日本食を食べ、湊屋とい女郎屋に扮装して出かけている。サトウは人々が自分達のことを、若い頃にイギリスに行った事のある薩摩藩士で、日本人と区別が付かなくなったと噂していると書いている。ワーグマンも、サトウ同様、日本語が堪能だった事だろう。

p350〓
1867年4月末から5月にかけて、大阪城において将軍慶喜と外国公使謁見が行われた。この時、英国公使パークスは、フランス風の豪華な晩餐会が終わった後の別室で、壁に掛かった「三十六歌仙」の絵の説明を、サトウから受けた。サトウは詳しく説明し、それをみて感銘を受けた慶喜はそのなかの「伊勢」をパークスに贈った。パークスが揃いのものからなので辞退するが、慶喜は、空白ができたとしても、その一枚が今英国公使の手に渡っていることは私の喜びである、と述べて、パークスを感激させた。

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