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p169 言文一致 井上ひさしの戯曲「国語元年」(昔NHK:1985年 でやっていた。ちあきなおみの演技というか鹿児島弁が素晴らしかったのを思い出す)東京語を標準語としていく過程。(明治のおいこら警官はほとんど薩摩藩士だったので,薩摩っぽと蔑まれ,「まっぽ」は警官の俗語として今でも使う:阿部注)
公用文を漢字カナ交じり文で書く。→五箇条の御誓文 カナが入ってきただけで画期的。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」は「かな交じり」と「カナ交じり」の両方がある。福沢はひらがなを推した。諭吉は「福翁自伝」以外は言文一致の文章はない。
言文一致は明治11年に再び文語文体に戻ってしまう。権威のため。
西周は外国語を翻訳,新しい漢語を量産したが,かえってこれが足かせになった。和語では長過ぎる。surviseは奉仕なら良いが,「つつしんでつかえる」では長過ぎる。
日本語をすべてかなにしようとか,ローマ字にするという運動もあった。
坪内逍遥のすすめで,二葉亭四迷は「浮雲」を書く。「です」「ます」ではなく「だ」調。
言文一致の動きに対抗する様に幸田露伴が雅俗折衷体で「風流仏」を書き,森鴎外の「舞姫」:明治23年 の雅文でこの動きを封じた。(舞姫などは何度読んでも美しい文章だと思う)
ついに新聞が「漢字かな交じり文」の文語文になってしまう。そのなかで,尾崎紅葉が言文一致の小説を書く。会話文と地の文が一致した方が読みやすい。〜である調。国定読本が口語文で書かれる様になった。言文一致会は明治43年に解散。
大正11年に大手新聞がすべて言文一致に。しかし,公用文が言文一致になったのは昭和20年。
本の最後に「です」「ます」調と「である」「だ」調とどちらを使うかは気分で変えてもよいし,文章の途中で織り込むこともよい,と山口先生は書かれている。なるほど,そうだったのか。ブログなどはいつもそれで悩む。悩まないで良いのだ。先人のお陰で現在は誰でも自由に文章が書ける。その通りだと思う。また分かち書きをしないでも読める文章は日本語くらいだろうと仰る。これもなるほど。
同じ漢字に複数の読みがある点や,外来語の扱い,語彙が多すぎる点など問題はたくさんあるが,日本語はまだ変化を続けていく。先生は書き言葉と話し言葉はどうしても乖離していくものなので,また問題が出て来る時がくるとおっしゃる。そうかもしれない。
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